石橋正二郎のあゆみHistory of Shojiro
-
-
1889年
(明治22)
-
- 0歳
- 2月1日、久留米市本町一丁目に初代石橋徳次郎・マツの次男として出生。
-
-
1892年
(明治25)
-
- 3歳
- 徳次郎が仕立物業の「志まや」を始める。
-
-
-
1894年
(明治27)
-
- 5歳
- (日清戦争始まり、翌年終わる)
-
-
1895年
(明治28)
-
- 6歳
- 久留米市荘島小学校に入学する。
-
-
1899年
(明治32)
-
- 10歳
- 久留米高等小学校に入学する。
図画の代用教員だった坂本繁二郎に図画を学ぶ。
-
-
1902年
(明治35)
-
- 13歳
- 久留米商業学校に入学する。
-
-
1904年
(明治37)
-
- 15歳
- (日露戦争始まり、翌年終わる)
-
-
1906年
(明治39)
-
- 17歳
- 久留米商業学校を卒業。兄とともに家業を継ぐ。
-
-
1907年
(明治40)
-
- 18歳
- 家業の仕立物業を足袋専業に改める。
-
-
1908年
(明治41)
-
- 19歳
- 久留米市内に小工場を建て、機械生産を始める。
-
-
1912年
(明治45)
-
- 23歳
- 九州で初めての自動車を購入し、宣伝に使用、効果をあげる。
-
-
1914年
(大正3)
-
- 25歳
- 「志まやたび」を「アサヒ足袋」と改称。20銭均一の販売を実施。
(第一次世界大戦が始まり、大正7年に終わる)
-
-
1918年
(大正7)
-
- 29歳
- 日本足袋(株)(後の日本ゴム(株))を創立して、専務取締役に就任する。洗町の新工場が竣工する。
-
-
1923年
(大正12)
-
- 34歳
- アサヒ地下足袋を創製、販売する。
-
-
-
1928年
(昭和3)
-
- 39歳
- 九州医学専門学校(現・久留米大学)創立にあたり、敷地と校舎を寄付する。
-
-
1929年
(昭和4)
-
- 40歳
- 日本足袋(株)の倉庫を改造して、タイヤ試作工場とする。
(ニューヨーク株式大暴落で、世界恐慌に発展)
-
-
1930年
(昭和5)
-
- 41歳
- 自動車タイヤの試作を開始する。
日本足袋(株)取締役社長に就任する。
純国産自動車タイヤ第一号誕生する。
-
-
-
1931年
(昭和6)
-
- 42歳
- 久留米市にブリッヂストンタイヤ(株)を創立、社長に就任する。
(満州事変が起こる)
-
-
1932年
(昭和7)
-
- 43歳
- 自動車タイヤの輸出を始める。
-
-
1934年
(昭和9)
-
- 45歳
- ブリッヂストンタイヤ(株)久留米工場が竣工する。
-
-
-
1937年
(昭和12)
-
- 48歳
- ブリッヂストンタイヤ(株)本社を東京に移す。
(日中戦争始まる)
-
-
1938年
(昭和13)
-
- 49歳
- 日本ゴム(株)創立20周年記念事業として武徳殿を建設し、久留米市に寄付する。
-
-
1940年
(昭和15)
-
- 51歳
- 地下足袋の創製と量産、国産タイヤの貢献をもって緑綬褒章を受ける。
-
-
1941年
(昭和16)
-
- 52歳
- (太平洋戦争が始まり、昭和20年に終戦)
-
-
1949年
(昭和24)
-
- 60歳
- 経団連常任理事に就任する。
天皇陛下久留米工場に行幸される。
-
-
-
1950年
(昭和25)
-
- 61歳
- グッドイヤー社の招きに応じて渡米、同社と技術提携の交渉を始める。
日本ゴム工業会が創立され、会長に就任。
-
-
1951年
(昭和26)
-
- 62歳
- 久留米大学理事長、共立女子学園理事に就任。
-
-
-
1952年
(昭和27)
-
- 63歳
- 東京京橋にブリヂストンビル落成、ブリヂストン美術館開館。 東京国立近代美術館評議員に就任する。
-
-
1953年
(昭和28)
-
- 64歳
- 九州北部大洪水にて久留米工場一部浸水、製造中の自動車タイヤ用チューブを放出して人命救助する。
ブリヂストンタイヤ(株)の本年度売上高は、100億円を突破し、業界首位に立つ。
-
-
1954年
(昭和29)
-
- 65歳
- 久留米大学商学部の敷地と建物の払下げ代金を寄付する。
-
-
1955年
(昭和30)
-
- 66歳
- 久留米地区に従業員用アパート群、付属幼稚園、スポーツセンターなどの厚生施設完成。
「ブリヂストン通り」を造成して久留米市に寄付。
ブリヂストン吹奏楽団久留米が結成される。
-
-
1956年
(昭和31)
-
- 67歳
- ブリヂストンタイヤ(株)創立25周年を迎え、久留米工場にて記念式典を挙行。記念事業として石橋文化センター(石橋美術館含む)、市長公舎を建設して久留米市に寄付する。
財団法人石橋財団を設立して理事長となる。
ヴェネツィア・ビエンナーレ展日本館を建設寄付。
久留米市より名誉市民の称号を受ける。
久留米商業高校に講堂武道場を建設寄付。
-
-
-
1957年
(昭和32)
-
- 68歳
- この頃から久留米市の小、中学校21校にプールを建設寄付。
ブリヂストンカンツリー倶楽部を創設する。
-
-
1958年
(昭和33)
-
- 69歳
- 梅林寺外苑を造園して寄進する。
私学振興の故をもって藍綬褒章を受ける。
日本自動車タイヤ協会会長に就任する。
-
-
1959年
(昭和34)
-
- 70歳
- 国立西洋美術館評議員、東京国立博物館評議員に就任する。
-
-
1960年
(昭和35)
-
- 71歳
- 有馬記念館を建設、久留米市に寄付する。
フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を贈られる。(日仏文化交流の功績による)
-
-
1961年
(昭和36)
-
- 72歳
- イタリア政府よりメリト勲章を贈られる。(日伊文化交流の功績による)
長者番付で日本一となる。
-
-
1962年
(昭和37)
-
- 73歳
- 石橋コレクション・パリ展開館式出席を兼ねて欧米に旅行。
-
-
1963年
(昭和38)
-
- 74歳
- ブリヂストンタイヤ(株)社長を辞任、会長に就任。社長に、副社長石橋幹一郎が就任する。
石橋文化センターに文化ホール、文化会館を建設し、久留米市に寄付する。
-
-
1964年
(昭和39)
-
- 75歳
- 勲二等瑞宝章を受ける。
-
-
1965年
(昭和40)
-
- 76歳
- 財団法人石橋財団より久留米大学附設高校の用地買収資金を寄付する。
-
-
1966年
(昭和41)
-
- 77歳
- 石橋文化センターの開園10周年記念式典にて、久留米市議会から感謝決議、久留米市から胸像、久留米市民から銀製の感謝楯を贈られる。日伊協会会長に就任する。
-
-
1967年
(昭和42)
-
- 78歳
- 久留米大学に医学図書館を建設寄付する。
-
-
1969年
(昭和44)
-
- 80歳
- 東京国立近代美術館竣工、寄贈式を行う。
-
-
1971年
(昭和46)
-
- 82歳
- 石橋文化センターの日本庭園寄贈式に出席。最後の帰郷となる。
-
-
-
1973年
(昭和48)
-
- 84歳
- ブリヂストンタイヤ(株)会長辞任、相談役となる。
久留米商業高校に体育館建設費を寄付。
-
-
1976年
(昭和51)
-
- 87歳
- 久留米市より米寿を祝って胸像を贈られ、五穀神社境内に建立される。
9月11日、東京日比谷病院にて死去 。
従三位勲一等瑞宝章を追贈される。
久留米総合スポーツセンター県立体育館にて、市民葬が執り行われる。
石橋家の菩提寺、千栄禅寺に遺骨を納める。遺骨を東京都多磨霊園に納める。
-