石橋正二郎ついてAbout Shojiro

1. 進学を断念し家業を継ぐ

石橋正二郎は、1889年(明治22)、徳次郎・マツの次男として久留米市本町に生まれました。子どもの頃の正二郎は、体が虚弱なため小学校も欠席がちで、無口、内向的な子どもであったといいます。しかし、学業成績はずば抜けていました。
久留米商業学校の在学中、正二郎は上級の学校である高等商業学校へ進学する志を抱きました。日本が日露戦争の戦勝国となり、青年は世界に雄飛する夢を描いていたのです。ところが、病床にあった父は家業を継ぐよう命じました。正二郎はやむなく進学を断念し、兄とともに仕立物業の「志まや」を引き継ぎました。17歳のときでした。
正二郎は自伝「私の歩み」の中で、「私は、一生をかけて実業をやる決心をした以上は、何としても全国的に発展するような事業で、世のためにもなることをしたいと夢を描いていた」と述べています。正二郎は事業家になろうと新たな志を立てたのでした。

久留米商業学校時代

2. 純国産タイヤをつくりたい

家業を継いだ正二郎は、まず仕立物業を足袋専業に改め、無給で働く徒弟制度を廃止して有給制度を採用しました。それを知った父はひどく叱りましたが、正二郎は「長時間、無給という労働条件では働く人にやる気がおこらない。働くには喜びが必要だ」と考えました。その後も正二郎は、均一価格の導入、地下足袋の創製、ゴム靴の量産などで事業を発展させていきました。
1928年(昭和3)頃、正二郎は自動車タイヤの国産化を決意しました。39歳のときです。正二郎はその計画についてこう述べています。
「当時、わが国の自動車保有台数はわずかに5、6万台といわれ、そのタイヤは殆んどが欧米からの輸入品であったから、私は国産タイヤを安価(あんか)に供給することは、わが国の自動車の発達に大きく貢献するものと思った」
折しも、日本経済は深刻な不況が続いていました。しかも、タイヤ製造の技術が非常に難しかったので社内の人びとはこの計画に反対しましたが、正二郎の決意は変わりませんでした。
1930年(昭和5)、日本足袋タイヤ部により第一号タイヤが誕生し、翌年、久留米市にブリヂストンタイヤ株式会社が創立されました。日本人の資本で、日本人の技術による自動車タイヤの国産化が成功したのです。それから20年ほどして、同社は業界国内首位に立ちました。

タイヤ第1号(1930年)

3. 郷里のお役に立ちたい

正二郎は私生活を質素にし、貴重な事業資金、私財の中から地域社会のために巨額を提供しつづけました。
それは、1928年(昭和3)、九州医学専門学校(現・久留米大学)の土地、校舎を寄付したことに始まりました。私立医学専門学校の新設について各地で誘致運動が起きていた頃、正二郎兄弟は、久留米市から学校用地と校舎を寄付するという条件で申し込めば誘致は成功するが、市には財源がないから寄付してもらいたいという申し出を受けます。「久留米の将来のためには、しっかりとした学校がここに確立されることが望ましい」と考え、兄弟は承諾の返事をしました。昭和3年といえば、正二郎が自動車タイヤの国産化を決意した頃で、すでに地下足袋の販売で成功していましたが、財政的にそう余裕はなかっただろうとされています。
正二郎はこのほか、久留米に対して、石橋文化センターをはじめ、久留米高等工業学校開設資金、久留米商業高校講堂および武道場、荘島小学校講堂、市内の小・中学校21校へのプール建設、有馬記念館などを寄付しました。
長男石橋幹一郎(名誉市民)は、新聞の取材の中で寄付についてこう語っています。
「父はメセナとかそういうものは知りません。ただ郷里のお役に立つならばとその心掛け1つで、出来るだけのことをして差しあげた。それが積み重なって今日まできています。寄付をした後、大変うれしそうにしていたのを子ども心に覚えています」

九州医学専門学校(現・久留米大学)

4. 楽しい文化都市にしたい

中でも、石橋文化センターへの情熱は晩年まで衰えることがありませんでした。1956年(昭和31)、正二郎は、ブリヂストンタイヤ株式会社創立25周年を記念して石橋文化センターを建設し、久留米市に寄付しました。67歳のときです。終戦後、久留米市は昭和20年の空襲で全市の多くが焼野原となりました。正二郎はこれが青少年の思想に及ぼす影響を心配し、「久留米を明るくしたい」と考え、文化センターの構想を練ります。そうして、自ら基本構想の図面を描きました。開園当時の施設には、石橋美術館や体育館、50m公認プール、野外音楽場などがありました。それは市民にとって、まさに「夢の贈り物」でした。
後年になって、石橋文化ホールと文化会館、日本庭園が加えられました。正二郎は郷里への思いをこう述べています。
「私は、愛郷心から私の会社の工場を永久に発展させたい念願であり、従って会社ばかり繁栄しても調和がとれないから、何とかして立派な久留米にしたい。(中略)清潔で整然とした秩序を保ち、教養の高い、豊かで住みよい、楽しい文化都市にしたいと願うものである」
石橋文化センターの正門石壁には、正二郎の筆跡(ひっせき)でこう刻まれています。
「世の人々の楽しみと幸福の為に」
この言葉は、働く人たちにも、世の中の人々にも楽しみを与えたいと願った正二郎の経営理念と人生観でした。そして、これからも市民が語り継ぐべき大切な「宝」です。

石橋文化ホール・文化会館を建設し久留米市に寄贈(1963年)